久々に思いを詰め込んで書いてみてるので、長いです。
ご興味あれば、見てください、疲れない程度に・・・ww^^
出発間近のアップとなったのは、なかなかルートが決めることが出来なかったから。
さらに、忙しさと体調のアップダウンが重なった。
いつもの私は、行くと決めたらイケイケGOGOで、迷いなんてない。
しかし、今回は違った。
いつもと違う自分がいた。
コロナのせいなのか、歳!!のせいなのか?!^^ww
どっちもか!
と思ってるところ、なんと去年のギックリ腰が再発〜〜!
忘れもしない、2021/11/18に魔女に一撃されて、ノックアウトしていた。
その再発がショックで、久々に凹んでいたよ〜〜。
ドルポ越冬から帰国したのは、2020年3月。
コロナで2年半行けていない。
約3年って長いよね、ネパールには、ほぼ毎年行ってたから。
コロナで世界中が変わった。
自分も3歳、歳とった〜ww
気づいたら40代が最後となって、びっくり〜。
リウマチなら、もう30年も付き合ってきてるから、なんとかするけど、
ぎっくり腰は、またリウマチとは違った痛みで、一瞬にして電気が走る。
まだ慣れないわ・・・。
ようやく復活してきて、そろそろアップしないと、と思っていたら、
今日は、私の師匠であった西ネパールの第一人者の大西バラサーブの命日だ。
だから、ここで切り替えて、エンジンかけていきますよ^^!
今回行く場所も、バラサーブが行ってた場所で、そこから自分ルートを考えた。
私は初めて行く場所で、「バジャン地方とダルチャラ地方」!
西ネパールの端っこ、西の隣はインド、北はチベット!というところ。
この地図は、2010年大西バラサーブが作成したもので、今回は緑色のところ。
この色とりどりに分けているのは、これまでに私が歩いてきたルートでもある。
もうちょっとで西ネパール全土が踏破出来る〜^^。
たまたま気になるところを歩き続けていたら、こうなっただけ、なんだけど。
今回の場所は、2018年(10/1~11/15、46日間)にフムラに行った時に後半に見つけた
ルートからの続きとなるんです。
それは、とある谷でヤクのキャラバンとの出会いからはじまる。
聞くと、彼らはバジャン 地方からやってきたキャラバンだった。
ということは、ここに地元の道がある。
トレッキ ングルートには掲載はされていなかった。
その時、私はある道を探していたが、間違えて その谷に入りこみ、偶然の出会いで、知りたかった地元の道を見つけた。
以前、「ヒマラ ヤのスパイ」(著:シドニー・ウィグノール)を読んでから、
この地域に興味を持ってい て、ウライ・B(峠)に行ってみたいと思っていた。
これらのことをきっかけに極西ネ パールのトレッキング縦走ルートを考えた。
とある谷で出会ったキャラバン
とはいえ、一回ではなかなか決まらないというか、わからない。
このあたりのトレッキングは、決まったルートがあるようでない。
果たして通れるのだろうか? 地図はたまに間違えているww
最近では、GHT(グレートヒマラヤトレイル)が出来たから、
ざっくり書かれてあるが、それは最近になってからで以前までは全くなかった。
そして、まだまだ西をトレッキングする人は非常に少ない。
今回は本当に何度も何度も考えた。
わからないことが出てきたら、ヒマラヤ協会の岩崎洋氏にダイレクトに聞く。
いつも岩崎さんには、大変お世話になっている。
これまでにも、現場で撮影してきたヒマラヤの写真の同定もよくして頂いていて、
私のアホな質問も、優しく丁寧に教えてくれる〜〜!
今回も色々聞かせて頂き、一つ面白いと思ったことがあって、
ここにメモしておこう。
セティ・ナディ上流部は下流域よりも、
カルナリ・ナディ上流部のケルミ辺りとつながりが強い。
と聞いて、私はびっくりした。
下流域と繋がりがあると思っていたから〜〜。
親戚もいるとか? すごいな〜、歩く民族ならではの距離感だ。
ということで、その両者を繋ぐ道がある、地元の道があるらしい。
それを私は地図で追っていて、見つけた^^
そこに、この話を聞かせてもらったので、これだ〜〜っという感じで、感動した〜!!
それは、アピ(7132m)のBCとサイパル(7031m)のBCが繋がるルートにもなるので、これが縦走出来たら良いなと思って相談してみた。
この付近で撮影された写真を見せて頂いたら、、う〜〜んん、となった。
フムラ地方に行った時も、秋の終わりはカルカには全く人がいなかった。
それを想像すると、この時期、通常のトレッキング装備では難しいだろうと、
私は自分で判断してやめた。
もちろん、現場にも行って見たいけど、知れたことだけでも私は嬉しい^^。
そんな感じで、ヒマラヤの民の道はトレッキングルートには示されていない場所が多々あって、それを現場で見つけた時が、私はとにかく楽しいというか、毎回感動して、
ニヤニヤしている^^。
岩崎さん、改めてありがとうございます!!
今回最終的に決めたルート、オレンジ色。
なぜ私はこういった辺境地のトレッキングをするのか?
西ネパール、特にドルポ地方には力を入れてきた。
それはまだ終わっていなくて、 ドルポ地方とその地に生きる人々を私のライフワークとしてずっと寄り添っていきたいと 思っている。
その、ドルポに長年通っていること、その中で今、辺境地においてもあらゆ ることがどんどん変化してしまい、いまのうちに見ておかなければという危機感が、
あるときから強くなってきた。
地元の道がどんどん消えていってるのだ。
ドルポだけではなく て西ネパールにも中国からの道路など近代化の波が押し寄せていて、それは地域住民に利便性を与える反面、彼らの自給自足のチベット文化や宗教、祭り、生活が失われていくスピードを早める側面もあると感じている。
現に、2018年に訪問したフムラ地方で、伝統的に作られてきたチベットの木製の器=
プルの生産が姿を消していた。
ここ数年で急速な変化をドルポにおいて見てきたので、他の地域にも同じことがあると思った。
そして、調べていたら、ものすごい興味そそられることを見つけた^^
「ヒマラヤ・サイパル登頂」 著 : 平林克敏 サンケイ新聞出版局 (1964年) から抜粋
〜 ガンジーの遺骨はチベット高地4556m聖湖マナサロワールの湖底に深く眠っている。
南チベットの聖なる地マナサ・カンダは、この付近一体が聖地で中央にマナサロ・ワール 湖とラカス・タール湖があり、北にカイラスと南にグルラ・マンダータが控え、そのさら に南の両脇に聖山アピとサイパルが控えている。
このアピとサイパルは南から聖地に入る 前門の仁王の役をはたしている。
そこは南アジアの文明の発祥地である、インダス、ガンジス、ツァンポ、サトレジの最も顕著な四大河が四方僅か2kmしか離れていないところから発生している。
言うなればここは、インド文明の発生の源である 〜
インドとの国境に近く、今でも国境の確定に争いが絶えないらしい。
宗教的にはどうなっているのか、民族的にはいくつもの民族がまじりあってるようだ。
この一帯はネパールに併合されるまでは小国として独自の文化が形成されていた。1962年6月までは、土候政治をいとなむバジャン王国が栄えていた。
今は、国境があるからチベット・インド・ネパールと別々で見てしまうかもしれないが、大きくとらえてみると、この地域一体が聖なる地域とよくわかる。
この計画書を河口慧海プロジェクトの和田豊司氏(日本山岳会東海支部・元支部長)に見て頂いたら、また面白いことを教えて頂いたので、ここにメモしておきたい。
サトレジ川はラカスタール湖からは出ていない。
マナサロワール湖 (4557m)はオーバーフローして、 ラカスタール湖(4541m)へ流れている。
そのためマナサロワール湖は淡水で魚が生息しているが、
ラカスタール湖は塩湖で魚が住んでいない。
地質時代と思われる時期には、
ラカスタール湖からサトレジ川に流出していたであろう痕跡がある。
ということで、これまた興味深い〜!!
20年前、カイラス巡礼したあと、このあたりに行ったことがある。
でも、全くこの意識がなかったというか、知らなかった。
ラカスタール湖が塩湖とは、なるほどだ。
そして、これも覚えれないから、ここにメモ^^。
=== カイラス山周辺を源流とする大河 ===
アジアの四大大河はカイラス山を源流として動物の口から流れ出ている。 1、インダス川 : 獅子の口から流れる獅泉河(センゲ・カンバブ)
2、サトレジ川 : 象の口から流れる象泉河
3、ヤルツァンポ川 : 馬に口から流れる馬泉河⇒ブラマプトラ川 4、カルナリ川: 孔雀の口から流れる孔雀河⇒ガンジス川
こういったことを、頭に入れて現地を歩くと、私はウキウキするのである^^!
次に、アピ(7132m)登山について。
アピ 悲劇と幸運の山 著:江上康 東京 創元社(1961年)から抜粋
〜ヒマラヤの国、ネパールの西北端に位置するこの山は、附近にはあまり高い山がな く、7000mを越える独立峰として、古くから知られている。
特に、インドから聖山カイ ラスへの巡礼者によって、世に紹介されたと思われる。
そのためなのかどんな地図を見て も、エベレストなどど共に、アピの名が記入されていない地図の方がめずらしいくらいで ある。
ネパールの山だと言っても、BCから1日も降りればインド領内に入ってしまう。
その国境をなすのがカリ河である。水は白くにごっている。
いっぽうこの河を1日さか登れ ば、峠を越してチベットに入ることができる。
この峠に立てば目前にマナサロワール湖が 横たわり、その向こうに聖山カイラスの白帽を冠った姿が望まれる。 アピという名は、チ ベット語で「祖母」の意味~ (以下後略)
〜 アピ、ナンバ山群が初めて登山家を迎えたのは1899年。 英国のランドアーという人 であった。 英国山岳会の伝統は短靴にステッキでやってきたのだから面白い。 でも彼はア ピには入らずナンパ谷に入った。 そしてナンパに登り「チベットとネパール」という本を 書いた。 しかし、その後、1905年に有名な英国登山家ロングスタッフが同じようにナン パを試登し、ランドアーの記録はでたらめだらけで、とても登ってなどいないことがわ かった。 それから30年間、この山群は静寂を保った。 しかし1936年、世界的有名は地質学者の ハイムとガンサーは、アピ谷に初めて入り込み、アピをはじめとして付近の山々の写真を 多数持ち帰った。 この年、日本から初めてでたヒマラヤ隊である立教のひとたちと、イン ドの山の中で会っている。 スイス人たちはこの山に関する貴重な数々の資料を持ち帰ったが、まだアピを攻撃する隊は現れなかった。 第2次大戦後、いち早くこの西北ネパールに目をつけたの英国の登山家マリーとタイス ンの2人が、1953年にここを目標としていた。 しかしその時はすでに今まで使われてい たインド側のカイラス巡礼ルートの道が、「インナーライン」のために、外国人はいっさ い通行を禁止されていた。 このため彼らはネパール側の道なき道(これを苦難の道)を言 語に絶する苦闘のすえ突破し、ついにアピの懐にたどり着いた。 しかし彼らはアピの登頂 ルートは見当たらないと断念し、山から離れているのである。彼らほどヒマラヤの経験者 がなぜ登頂ルートを見つけることができなかったのか」 〜 (以下後略)。 次にアピに攻撃をかけた最初の隊は1954年、世界中の山を飛び歩いていたイタリア人 のギリオーネ、その時71歳。 若い隊員2人と組んだが、途中で天候が崩れてさらにギリ オーネは、若い隊員にはついて行けなくなり第3キャンプにおりた。 若い隊員も登高は続 けるか、体調を崩していき息絶えてしまった。残されたのはシェルパのギャルツェン。最後の力を振り絞って下山できたが、登頂ならず。
アピ(7132m)
・1963年 北面 平林克敏氏とシェルパが初登頂
・1978年 南面~東陵 イタリア隊が登頂
・1996年 南壁 スロベニア隊が登頂
・2001年 北面 岩崎洋氏、野沢井歩氏、古谷朋之氏、今村裕隆氏、荻原文彦氏が登頂 ・2015年 南面(7132m)から北面に転進し、初登ルートで登頂。
平出和也氏、中島ケンロウ氏、三戸呂拓也氏。
2015年の平出さん達の遠征は、リアルタイムでチェックしていた。
北面に転進してというニュースとか見ていた時は、興奮したな〜^^
あ、私はあくまでもトレッキンングですので、お間違えなく^^!
最後に今また調べてたら、ヒマラヤ植物研究会というのがあり、 西ネパールの植物を研究されている先生がいるようだ。
ということで、長くなった。
出発は10月15日、 帰国は、12月3日 と なります。
今回は、コロナ後、久々のネパールなので、予備日たくさん作りました。
いつも、歩く予定ギチギチに詰め込んで、レスト日はぼぼ作ってなかったけど、
今回は、知らない地域、コロナ後、リウマチに加えて腰痛も増えた・・・ww
そして、また日本人1人、ネパール人は2~3人、出来たら2名希望。
なので、ボチボチで行きます。
4〜5日に一度は、レストして、
身体休めて、ソーラー充電したり、洗濯とかしてみようかな。
スタート地点のチャインプールまで、ローカルバスで3日ぐらいかけていこうかと
思っていたけど、腰痛が怖いので・・・、国内線使うかもー^^
私は、ローカルバスがめっちゃ好きやったけど・・・・
帰りは、きっとバスかな、その時の体調で決めます。
歳とりましたわ、初めてや、こういうのん思うのは、40代ラストです^^!
日本 〜 ネパールで、50日間。
トレッキングは、レスト入れて28日間。
後の22日間は移動と予備日です。
予備が多い^^
これは、不確定要素の多いネパールでは、ちょうどいい。
時間が余ればまた歩くし、ポカラの偵察や、カトマンズでもやりたいことがある。
ということで、流動的に動けるようにです。
1日に歩く距離は、10km前後。
合計、約205km〜(平面の地図上で、今回ちゃんと測ってみる)
標高は、1200m~ 5207m
西の端っこまで、ダルチャラをゴールとしてます。
インドとの国境に面していて、カリ河見たいんですよね^^
マイペースにぼちぼちで行きますわ。
簡単に目的を伝えると
1、国境付近まで行って、展望探し
2、縦走して、展望探し
3、アピのBCに行ってみたい
4、滝!みたい。
5、ゴールはダルチャラ、カリ河見たい。
6、民族・宗教は?どんな感じだろう
きっと無理だろうけど、ワープ出来るならば^^
6、ティンカール村・峠まで行きたい
(多分、日数的にも無理かな、行くならレスト少なくしないと無理)
写真は、2018年 (10/1~11/15、46日間)、フムラ地方を約1ヶ月周遊して、
最後の目的地チマ・ラ(峠)にたどり着いた。
この時は、ポーター達が行きたくないとか言い出して(西ではよくある)
ガイドと2人でテント・寝袋・食糧を担いで数日進んだ。
その時の帰国してからのブログに興奮気味で走りがきしてる。
今回は、この峠に繋がるであろう谷を見て、国境手前に行くのが目的でもある。
どんな感じになるのか^^
リウマチより腰痛が不安だけどww、ワクワクがあるよ^^!
すでにご存知かもしれませんが、今秋(2023年9月25日)NHK BSで 「体感! グレートネイチャー:大遡行! ヤルツァンポ川 聖地を生んだ大陸衝突」という番組が放映されました。
この番組の最後のあたりで、チェマユンドン・チュー源流部("馬の口"[Tamchok Khambab])を訪問する映像があったので、これを機会にチェマユンドン・チュー源流域の主要ピークや氷河等の名称の異同を下記URLにまとめてみました(稲葉さんのこのブログ (2022-9-20)で掲載している大西保氏作製地図「NORTH WESTERN NEPAL」 (rev. Jun. 2010) も参照しました。ありがとうございます・・・)。
https://technopolis2719.sakura.ne.jp/dai/dzang-ri-009.htm#Chema%20Yungdrung%20Chu
今回いくつかの資料を比較しながらこの地域の山名等を調べていくと、2010年9月日本隊(同志社大学隊)がネパール側から初登頂したチャンラ(6563m)峰の南東のチベット側には、チェマユンドン・チュー源流部("馬の口"[Tamchok Khambab])があり、両者は直線距離で10km前後しか離れていないことがわかりました。
今回のブログでは2010年大西保氏作製の地図を掲載してくれて大変ありがたいです(手もとにある日本山岳会関西支部「チャンタンの蒼い空 - 西チベット学術登山隊2004全記録 -」(2005)収録の地図と比べると、更新個所がよくわかります)。
西北ネパール国境付近の山々については、大西保さんたちの探査によって不明な点がかなり解明されましたが、その後イギリスの「AJ(Alpine Journal)2019」に次のような報告が掲載されています(すでにご存知でしたらすいません・・・)。
・Julian Freeman-Attwood, 'Karnali Country - A Summary of Peaks over 6,000m on the Tibetan Frontier of Far North-west Nepal-' ("AJ Vol. 123 (2019)", p45-69)
・Julian Freeman-Attwood,'First Ascents in West Nepal' ("AJ Vol. 123 (2019)", p70-83)
これらの報告は下記URLからPDFファイルでダウンロードできます。
https://www.alpinejournal.org.uk/Contents/Contents_2019.html
それから、カイラス周辺から流れ出す4大河の河源については、私も興味を持ち探査記録を少し調べたことがあります。
私が調べた範囲では次の人たちが探訪記録をのこしています。現在でもこれらの(民俗的な)河源は聖地とされているようで、Webで検索すると(比較的)最近の写真がみつかったりします。
1、インダス川 : 獅子の口から流れる獅泉河(センゲ・カンバブ)
・・・ヘディン(1907)、Pranavananda(1937:この付近に3日間滞在)、McCue(1990~2000年代?)が到達
2、サトレジ川 : 象の口から流れる象泉河
*2つの河源(どちらも「Langchen Khabab」と呼ばれる)がある
①「Langchen Khabab」(マナサロワール湖の南東)
・・・ヘディン(1907?)、Pranavananda(1930年代?)、McCue(1990~2000年代?)が到達
②「Langchen Khabab」(ラカスタール湖の北西「Dungchu gompa」付近)
・・・ヘディン(1907?)、Pranavananda(1930年代?)、McCue(1990~2000年代?)が到達
3、ヤルツァンポ川 : 馬に口から流れる馬泉河⇒ブラマプトラ川
・・・Pranavananda(1937、ブラマプトラ河の源にある「Tamchok Khambab Chhorten」と呼ばれるモニュメントを探訪)、McCue(1990~2000年代?「Tamchok Khabab」にあるボン教徒のモニュメント「Bonpo Ne」を探訪)が到達
4、カルナリ川: 孔雀の口から流れる孔雀河⇒ガンジス川
*2つの河源がある
①"Mapcha Chungo (peacock mouth)" (チベット側)
・・・Pranavananda(1930年代)、McCue(1990~2000年代?)が到達
②"Kalapani spring" (ヒマラヤ山脈の南側:インド=ネパール間で現在係争中)
https://en.wikipedia.org/wiki/Kalapani_territory
・・・Pranavananda(1930年代?)が到達
○参考資料
* S. Hedin "Trans-Himalaya: Discoveries and Adventures in Tibet ( Vol II )" The Macmillan Company (1909)
* ヘディン (青木秀男 訳)『トランス・ヒマラヤ(下)』白水社 (1965)
* Swami Pranavananda 'The Sources of the Brahmaputra, Indus, Sutlej, and Karnali: With Notes on…